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【書評03】等伯(安部龍太郎)

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「ええか信春、俺ら政にたずさわる者は、信念のために噓をつく。時には人をだまし、 陥れ、裏切ることもある。だが、それでええと思とる訳やない。そやさかい常しえの真・善・美を乞い求め、心の底から打ち震わしてくれるのを待っとんのや」

 

時は戦国時代。

 

新興勢力が次々と旧体制を倒す下剋上の時代に、絵画界の権威である狩野派を打ち破らんとする1人の絵師がいました。

 

名は長谷川信春(等伯)。

 

北陸の片田舎から都に殴り込み、壮麗な狩野永徳の絵画とは対照的に、野性味あふれる大胆な表現で人々の目を引き長谷川派をぶち上げた1人の男の物語です。

 

武家出身の彼は仏教絵画を専門に行う長谷川家に養子に出されたわけですが、彼の生き様は不器用な武士そのものです。

 

常に真実を自らの目で直接見なければ納得できない、描かずにはいられない。

 

そんな渇望に突き動かされて前進を続けるため、しばしばトラブルに巻き込まれ身内の不幸を招くことにもなります。

 

それでも彼は歩みを止めず不遇の最中でも絵を描き続け、降りかかる災難をも糧にして人々の心を掴んでいきます。

 

幼き頃より神童扱いされ世渡りにも長けた天才狩野永徳とは全く異なる人生です。

 

そんなバカ正直な等伯ですが、不器用で妥協できないからこそ、普通の人だったら諦めて到達できない高みに上り詰めることができたのでしょう。

 

次第に彼の元には多くの人々から仕事が舞い込み、それまでの10年以上に渡る不遇な時期の鬱憤を晴らすかのように描いて描いて描きまくろうとしますが、時代がそれを許してはくれませんでした。

 

自らの地位を脅かすのではと警戒した狩野派とそのバックについている石田三成との権力闘争に否応なく巻き込まれてしまいます。

 

このあたりは現代日本人にもありがちなことであり、例えばとある優秀な医師が臨床や研究に没頭しようとしても大学病院医局の権力闘争に巻き込まれることは珍しくありません。

 

長谷川等伯狩野永徳も激しくしのぎを削り、特に箔が付くとされる朝廷から依頼された大仕事については巨額の実弾が飛び交い、さながら「白い巨塔」の第一外科教授選の様相を呈しております。

 

ただ大きい仕事がやりたいという欲望から等伯はいつの間にか雑念や執着にとらわれてしまったわけです。

 

現代においても、ワクワクする仕事がしたいとか実績を残したいという心から相手を陥れようとする権力闘争に発展するケースはしばしばありますが、等伯もそんなエゴにとらわれてしまいます。

 

これまで養父母の死や妻の死など数多くの不幸に遭い、その度に苦悶するわけですがそれらを乗り越えて等伯は絵師として成長してきました。

 

そして、エゴにとらわれた等伯は、痛い目に遭うだけでなく日蓮宗の僧や茶の師匠である千利休から諭され、自分自身のちっぽけなエゴをも克服しようとします。

 

波乱万丈の人生を送ってきた等伯ですが、最良の後継者である長男をわずか26歳で失うことでこれまでにない失意のどん底に放り込まれます。

 

長男を失った怒りから後先顧みない軽率な行動を取った等伯は自らの首をかけて絵を描くよう命じられます。

 

後継者を失い腑抜けた生活をしばらく続けていた彼ですが、これまで降り掛かってきた艱難辛苦を全て昇華して渾身の一枚を描き上げます。

 

松林図屏風。

 

時の権力者豊臣秀吉や他の大名に対してさえエゴを自覚させた最高傑作。

 

物語の締めくくりの場面においても彼らしさが表れております。

 

もっともっと絵が上手くなりたい。

 

都を去る時にさえその光景をデッサンして自らの心に残そうとしていきました。

 

時は400年以上流れましたが、彼の松林図屏風はある現代人の心を動かすこととなりました。

 

それは他ならぬこの作品の著者である安部龍太郎

 

2011年の東日本大震災で彼は自分にはどうしようもできないという無力感に押し潰されそうになりますが、等伯の画集を開き松林図屏風に至るまでの等伯の苦悩に思いを巡らせることで再び立ち上がることができたとのことです。

 

血生臭い権力闘争に巻き込まれ右往左往しながらも、もっと良い絵が描きたいという純粋な心だけは捨てなかった等伯

 

欲望にとらわれた者から見るとまばゆいばかりです。